東京・ワシントン・北京・ヨーロッパ対北情報網密着取材
特集!「小さな将軍」金正男の秘密行脚
新東亜2001年6月号
金正男が日本に行ったのは、北朝鮮がイラクに輸出したミサイルの輸出代金を集金するためだった。北朝鮮は、最近、SAM16A(肩撃ち式対空ミサイル)300基をイラクに輸出し、金正男は、この金を取り纏めていたのである。イラクは、SAM16Aの代金をスイス、香港、シドニー、東京に分散して預け置いていた。代金を送金したところは、ロンドンだった。
■「北朝鮮最高権力者金正日は、北朝鮮のミサイル輸出業務の総責任者である」。
「新東亜」にもたらされた諜報は、衝撃的なものだった。
5月3日1130、仁川空港を離陸した東京行大韓航空727便が通常高度に上がった。眠ろうとして目を閉じた。朝から眠れず、疲れていたが、眠れず、精神だけまじまじさせた。
米国ワシントンDCのY先生が東京に出て来ていることも、金正男の武器輸出活動を調査するためものであった。前日の夕方、東京赤坂ニューオータニホテルに泊まっているY先生と通話を終えるや、出張準備を急いだ。一旦、Y先生と会わなければならない。彼と会えば、金正男のその間の行脚を知ることができるだろう。
そんな後に、日本の私の関連者と会わなければならないのである。先約をしなかった状態のため、取材がそのまま行われるという保障はなかった。
1330、成田空港に到着した。ニューオータニホテルのロビーで、Y先生と会ったのは、1730である。基礎取材を終え、酒を一杯飲むために、Y先生と寿司屋で対面した。
突然、TVから緊急ニュースが現れた。金正男が成田空港で密入国の嫌疑で逮捕されたと報道した。これは、何という奇遇なのか。Y先生が肩をバタンと叩き、にっこり笑った。
「崔記者、どうしても、今回一件ありそうだ」。
彼は、金正男が日本に密入国しようとしたのを予め知っていたかのような言葉だった・・・。
■「私は北朝鮮金正日の息子」
記者が東京にあたふたと入国する2日前の5月1日午後4時頃、日本成田国際空港第2ターミナル。シンガポールから来た日本のJAL712便搭乗者がゲートに溢れ、出入国管理所入国審査台の前に押し寄せていた。日本人入国審査台は、左側、外国人入国審査台は、右側。
右側の外国人入国審査台の前に並んだ外国人中には、高級な身形の東洋人一行4名が混じっていた。スポーツ刈りにレスリング選手のような姿の若い東洋人の男性、20代後半と見られるサングラスをかけた洗練された女性、7歳程度と見られる男の子と彼の手を取った30代初盤の女性。順序を待っていた彼らが遂に入国審査台の前に立った。威厳のある体格の男性が先ず最初に旅券を出入国管理所職員に差し出した。出入国管理所職員が旅券感知機に彼の旅券を入れた瞬間、ベルが鳴った。
瞬間、予め待機していた出入国管理所職員8名が電光のように飛び掛った。職員達は、一行4名を隊列の外に連れ出し、上の階にある調査官室に連れて行った。男性は、当初は少し反抗するようだったが、出入国管理所職員と警察数名が彼を取り囲むや、抵抗を放棄した。直ちに他の一行3名も職員の案内を受け、各個別の部屋に誘致されて、調査を受け始めた。
男性は、当初は韓国人だと主張した。旅券には、彼の出生地が「KOREA」と記録されていた。しかし、出入国管理所職員は、これを信じなかった。彼は、今度は中国人だと主張したが、旅券に記載された事実が虚偽であることが明らかになるや、「私は、北朝鮮金正日の息子」だと身分を明らかにした。彼は、「子供が東京ディズニーランドを見たいので、観光しに来た」と付け加えた。
出入国管理所職員も、彼が北朝鮮高位層人士の息子であると見当を付けた。しかし、彼が自分が金正日の息子であると明らかにするや、非常事態に入った。法務省は、出入国管理所にこの事実が外部に漏れないように指示した。
成田出入国管理所は、直ちにこの一行4名の身柄を成田空港を管轄する茨城県不法入国者収容施設に移した。彼らは、特室で韓国語を話せる法務省職員、検察、出入国管理所、警察等、4個機関の合同調査班から調査を受けた。合同調査班は、男性と女性2名を別々に調査した。合同調査班は、この男性が金正日の息子の金正男であることを確認した。
事態が深刻化するや、法務省は、外務省と緊密に通信を遣り取りした。カワシマ・ユタカ外務省事務次官は、5月1日夜、高輪プリンスホテルで会議中だった小泉純一新任総理に事態を報告した。5月2日朝、総理公館では、法務・外務・官房長官等が参席した中、緊急閣僚会議が開かれた。
日本政府は、北朝鮮と中国を通して、事実の可否を確認した。当時、金正男は、中国行をを願っていた。しかし、国際慣例上、不法入国者は、特に問題がなければ、出発地に送り返すのが原則である。そうだとすれば、彼をシンガポールに追放しなければならなかった。犯罪事実があれば、抑留することもある。しかし、閣僚達は、金正男一行の便宜を最大限考慮して、中国に追放することに決定し、中国側と幕後の交渉に着手し始めた。
一方、日本の言論社は、5月2日午前までも、この事実を知っていなかった。しかし、日本の記者達は、5月1日夕方から、外務省北東アジア局と法務省出入国管理局が門を閉めて、部外者の出入を統制するや、何か重大な事態が発生したことに気付いた。しかし、その日の午後、成田空港を出入する記者から、「5月1日午後、中国側の重要人物数名が不法入国しようとしたが、逮捕された」という報告が現れた。言論社は、直ちに事実確認作業に入った。結局、5月3日1730、日本TV(NTV)が事実を知って、臨時緊急ニュースとして、最初の報道を飛ばした。
■北朝鮮の立場、細心に配慮
米国の時事週刊誌「ニューズウィーク」によれば、法務省が金正男の身柄を余りに慎重に処理するのに腹が立った警視庁が日本TVに彼の拘束の事実を仄めかして、法務省に彼を密入国の嫌疑で起訴しろと圧力を加えたという。NTVの報道が出た20分後に、時事通信と共同通信も、この事実を報道した。
日本の言論は、逮捕された人物が金正日の息子金正男であることを確認したが、法務省の要請に従い、「金正日の息子だと主張する金正男」又は「北朝鮮金正日総書記の息子と推測される金正男」という表現で報道し、日本政府と北朝鮮の体面を繕ってやった。日本の言論は、国家利益と日朝関係を考慮して、「金正日の息子」という断定的な表現を書かなかった。
急迫して入った日本と中国の幕後接触は、上手く進んだ。中国が金正男一行を受け入れるという方針を明らかにしたのである。これに従い、日本は、5月4日午前10時に出発する全日本航空(ANA)便で金正男一行を追放した。この一行がANA航空機に搭乗する場面は、全世界の言論に公開された。金正男が父金正日とは、1年の時差を置いて、全く別の方式で「隠遁」から解放される瞬間だった。日本は、北朝鮮の皇太子金正男一行を特別に配慮した。6名の日本官吏を含む一行は、北京に行くボーイング747機の2階を独り占めした。
■金正男の訪日目的
日本は、北朝鮮との関係を考慮して、金正男事件を慎重に処理した。4日間、彼らの身柄を確保していたが、たまたま平壌を訪問中であった欧州連合(EU)代表団が平壌を離れた後に追放した。お陰で、金正日国防委員長は、体面を守った。勿論、北朝鮮言論は、金正男逮捕事件を全く報道しなかった。金正男一行は、5月4日1311頃、北京空港に到着した。彼らは、中国と北朝鮮当局者と見られる者の警護を受けつつ、空港貴賓室に入って行った。そして、再び「隠遁」の中に消えた。
そうだとすれば、金正男の訪日目的は、何なのか?その鍵は、日本捜査当局が握っている。現在、日本当局は、金正男捜査結果を韓国側に提供していない。我が政府が金正男事件に対して、真相を全く把握できなかったのは、このためである。事件直後、金正男の日本訪問の目的を巡って、各種推測が現れた。彼は、合同調査班の調査でも、「子供に東京ディズニーランドを見せてやるために入国した」と語った。しかし、金正男程度の人物が旅行でもしようと、日本に密入国したと信じる者はいない。彼は、明らかに何らかの任務を帯びて、日本を訪問していたのである。
北朝鮮専門家は、「金正日の黙認の下、後継者修行を行うため、秘密海外旅行を行ったのだろう」、「金正男が北朝鮮のIT産業責任者である位、日本の高級コンピュータ部品を購入し、IT市場を眺めて、情報を入手するために、入国したのだろう」、「膠着状態に陥った日朝修交協商において、何らかの役割を行うための訪問だった」という等、各種分析を出した。「日朝修交役割論」は、金正男が逮捕された5月初旬に日本の政権交代があったために出て来た推測である。不発に終わりこそしたが、昨年、森総理は、北朝鮮と修交協商を指導したことがある。
単純なコンピュータ・チップではなく、ミサイル部品を購入するために密入国したという主張も提起された。専門家の共通する主張は、彼の密入国が一定の任務を帯びたものだったという点である。北朝鮮権力構造上、金正日の指示なく、むやみに海外旅行を行うこともできず、業務に必要な旅行でなければ、そのように多くの外貨を所持して出て行けないためである。しかし、このような推測は、どこまでも「推測」に過ぎない。
そのような中、記者は、日本公安関係者から、決定的な情報を得た。金正男一行を66時間調査した日本公安調査庁は、金正男が北朝鮮のミサイル輸出代金を集金するために、東京に来たという事実を明らかにしたのである。北朝鮮は、最近、SAM16A(肩撃ち式対空ミサイル)300基をイラクに輸出した。金正男は、この金を取り纏めようとしたのである。イラクは、SAM16Aの代金をスイス、香港、シドニー、東京等、4ヵ所の秘密銀行に分散して預け置いた。代金を送金した地域は、国際金融中心地であるロンドンである。ミサイル販売代金のような巨額が移動すれば、国際情報網に露出する危険が大きい。イラクは、西側情報機関の監視網を避けるため、販売代金を4ヶ所に分けて送金した。ロンドンを最初の送金地に託した理由は、夥しい規模の国際資本が移動するところであり、現金移動を隠すのが容易いためである。
成田空港で逮捕される前の金正男の旅行ルートを見れば、イラクが販売代金を分散して預け置いた都市4ヶ所と正確に一致する。彼は、日本に来る前、オーストラリアのシドニーに行き、ミサイル販売代金4包みの内の1つを中国の秘密口座に送金した。金正男がミサイル販売代金を洗濯する場所は中国だった。中国で洗濯した後、この金を平壌に送る方式である。彼は、3都市に分散して預け置かれたミサイル代金を全て取り纏めた後、残り4分の1を集めようと、東京に入ったが、首根っこを掴まれたのである。
ここで、いくつかの疑問が残る。金正男のような北朝鮮の最高ロイヤル・ファミリーが何故直接金を求めて、危険な海外旅行をしたのかという疑問である。しかし、現金ということで、金正日政権を維持するのに、最も重要な要素である。金正日が北朝鮮の核心勢力である軍部を掌握できるのも、外貨を調達できるためである。金正日には、外貨集金は誰にも任せられない核心業務である。その上、最近、北朝鮮では、最高機密を持った権力首脳部の西側亡命が続いている。黄長Y氏とチャン・スンギル、エジプト駐在北朝鮮大使が代表的である。
金正男以前に北朝鮮のミサイル輸出業務は、1997年8月、米国に亡命したチャン・スンギル前大使が担当していた。当時、エジプトは、北朝鮮がミサイルを開発して輸出するのに重要な橋渡し役を行った。北朝鮮は、1981年、エジプトと「ミサイル開発協定」を締結し、エジプトを通して、ソ連製スカッドBミサイル技術を導入、1985年に射程距離340kmの北朝鮮製スカッドBミサイルを開発するのに成功した。北朝鮮は、これに従い、スカッドBミサイルを量産し始め、1987年、イランとシリアに160基を輸出して、10億ドル以上の外貨を稼ぎ出したものと知られている。
■南浦からミサイル輸出
チャン大使は、金正日の絶対的信任を受けていた人物で、北朝鮮の外交政策決定過程に対して、内密の情報を持っていた。その上、チャン大使と一緒に亡命したチャン・スンホ、パリ駐在北朝鮮総代表部参事官は、10年以上、海外で外貨稼ぎの専門家として勤務したために、北朝鮮の外貨稼ぎの実態を誰よりも詳細に把握していた。
黄長Y氏とチャン大使が亡命した後、金正日委員長は、誰も信じられなくなった。そのような状況においては、信じられるのは家族の外になかった。それで、金正日は、政権を支えるのに最も重要な「現金」と「軍部」の核心業務を長男に任せたのである。日本当局の捜査でも、金正男は、北朝鮮のミサイルと武器販売を担当する総責任者と明らかにされたという。北朝鮮は、6.15南北頂上会談以後にも、ミサイルを継続して輸出しているものと知られている。米韓頂上会談の熱気が高まっていた去る3月9日、米国の「ワシントン・タイムズ」は、米国のスパイ衛星が北朝鮮南浦港からスカッドB型とスカッドC型ミサイルが船積みされる現場写真を撮ったと報道した。記事全文である。
「米国情報機関関係者によれば、北朝鮮は、西海岸の港口でミサイル部品を船積みして、輸出する準備をしていた。米国のスパイ衛星が数日前に撮影した写真を見れば、北朝鮮西海岸南浦近郊の港口で1隻の船舶がミサイルを船積みしている。ミサイルの正確な形態は、確信できないが、北朝鮮が作ったスカッドBか、スカッドCの部品であると推定される。スカッドBミサイルは、射程距離が300kmで、スカッドCミサイルは、500km以上から目標物を打撃することができる。北朝鮮は、射程距離1,000kmのノドン・ミサイルも輸出している」。
「ある情報機関関係者は、「問題の船舶に船積みされた物件の中には、ミサイル弾頭に装着される化学武器も含まれていた」と語った。別の関係者は、船積物品の中には、ジェットエンジンの燃料タンクもあったと語った。また別の数名の関係者は、「ミサイルを積んだ船舶は、寒気で港口一帯が凍りつき、港口で1週間以上、停泊していた」と語った。この関係者は、船舶の目的地は分からず、外交的な経路も、別の工作でミサイル販売を封鎖する計画も、手段はない」と明らかにした」。
「情報機関関係者は、北朝鮮は、エジプト、パキスタン、イラン、リビア等、各国にミサイルを輸出していると語った。去る2月、米議会に提出されたCIAの報告書でも、北朝鮮が中東と南アジア、北アフリカに重要な弾道ミサイル部品と技術を輸出していると明らかにした・・」。
北朝鮮のミサイル輸出は、公然たる秘密である。クリントン政府内々で継続された「ミサイル会談」において、北朝鮮は、一貫して「ミサイル開発、生産、配置、輸出は、主権と関連した事項である。ただ、輸出くらいは、米国が輸出金額に該当する保障を与えてくれれば、中断する用意がある」と主張した。北朝鮮は、閉鎖政策と米国の経済封鎖のために、正常的な経済活動を行うことができない。そのような状態において、ミサイル輸出くらい確実な外貨獲得手段はない。
■在米同胞ユン・ホンジュンと金正日
今回の事件で、金正男の日本内組織は、崩れる可能性が高い。日本警視庁は、今回の調査期間に、金正男一行の指紋を採取したという。警視庁の捜査能力は、世界最高水準である。警視庁が捜査を始める最初の段階は、常に「指紋」である。現在、警視庁は、金正男の指紋を根拠に過去の彼の日本内の行跡を丹念に後追いしている。彼が日本で接触していた人物と動産を1つ1つチェックするのである。今まで進行された調査結果によれば、意外にも、金正男の日本内組織は、朝総連とは全く関連がないものと明らかにされている。
金正男の日本組織の中で、核心人物は、在日同胞医師である金マヌ氏である。彼は、朝総連とは無関係な人物で、平壌と羅津・先峰に病院を立てた人物と知られている。また、東京には、金正日の知られていない娘が留学中であると伝えられた。
日本当局の捜査結果、金正男の武器輸出には、在米同胞ユン・ホンジュン氏(34)が核心役割を行ったことが明らかにされている。彼は、1997年大選直前、金大中候補が北朝鮮側と接触したとして、記者会見を行った人物である。1997年12月15日付「ハンギョレ」の報道である。
「在米事業家を自任するユン・ホンジュン氏(30)が12月12日、北京で韓国特派員に記者会見を要請した。・・・ユン氏は、8枚の会見文で、「金大中候補が昨年10月、北京を訪問したとき、北朝鮮高位層と密かに接触を指導し、去る71年大選時は、選挙資金を支援された」と主張した。彼は又、金候補が理事長をしているア太平和財団と北朝鮮のア太平和委員会が接触を維持しており、金候補が北朝鮮の高麗連邦制を支持することにしたと主張した。ユン氏は、自身の会見が言論に報道されないや、13日には、東京帝国ホテルで、一部駐日特派員を呼んで、似たような内容の主張を反復した」。
ユン氏は、北京と東京で行われた2回の記者会見が全ての言論に報道されないや、大選直前の1997年12月16日、汝牟島63ビルで記者会見を開いた後、真っ直ぐ米国に出国した。検察は、記者会見当日、出国禁止措置と共に、捜査官を金浦空港に急派したが、検挙することに失敗した。当時、彼は、安企部の準工作員の役割を行ったと知られている。
日本の捜査当局によれば、この謎めいた人物、ユン・ホンジュンは、その間、北朝鮮の武器仲介商の役割を継続してきたという。近頃明らかになったユン氏の「対北作品」がそのつである。最近、北朝鮮は、前方配置部隊のみならず、全軍の通信体系を光ケーブルに変えた。駐韓米軍が北朝鮮軍の地下埋設通信まで盗聴するためだった。現在、韓国に駐屯している米8軍は、隷下部隊である501情報旅団を通して、北朝鮮軍の全ての通信活動を監聴している。
また、駐韓米大使館内には、「FBIS(海外放送聴取班)」があるが、FBISの与えられた業務が対北監聴である。北朝鮮軍に駐韓米軍の監聴を避けるための光ケーブルを供給したのが、正にユン・ホンジュン氏である。そして、光ケーブル交替事業を担当した北朝鮮側責任者が金正男である。
■CIA、金正男情報日本に流す
そうであれば、日本は、どのようにして、金正男を逮捕したのか?出入国管理業務に明るいある関係者は、「金正男のドミニカ旅券は、それ自体では余り問題がなかったという。成田空港出入国管理所が金正男を捕まえたのは、彼が金正男又は北朝鮮の問題人物だという諜報を受けたために、可能なことだった。事前に入手した情報がなければ、そのように電撃作戦式に逮捕することは難しい」と語った。
金正男が昨年10月と12月にも、3回も今回と全く同じドミニカ共和国旅券で日本に入国していた事実を見れば、この関係者の証言は、説得力がある。最先端旅券感知機を設置した成田空港において、3回も偽造旅券所持者を逃して、4度目に初めて摘発したのは、理解が難しい。
日本には、情報機関だと言える機構が3群ある。
内閣調査室は、韓国の国情院に該当する情報機関である。しかし、ここの人員は、300〜400名に過ぎず、直接動かす人員もいない。ここは、米国に見立てれば、中央情報局(CIA)の上級機関であるNSA(米国家安全保障会議)のような現場から上がってきた情報を分析する機関である。ここから集合分析された情報は、そのまま総理に報告される。内閣調査室は、捜査権や、逮捕権がない。しかし、内閣調査室の最高幹部は、内務省次官と法務省次官、警視庁長が担当しているので、内閣調査室長は、警視総監が担当する。
内閣調査室の手足の役割を行う機構が法務省傘下の公安調査庁である。公安調査庁は、内閣調査室の指示に従い動く工作機関であり、捜査機関である。防衛庁通信室(FI・別班)は、監聴のみを行う機構である。太平洋戦争を戦った国家である日本の監聴水準は、世界最高水準である。2次世界大戦当時、スターリンがドイツに送った間諜ゾルゲを捕まえたところは、ソウル龍山の日本軍駐屯基地だった。日本が通信情報に有利なことは、一名「象の檻」と呼ばれる巨大なアンテナを北海道、その下にある愛媛県と沖縄県に設置しているためである。
このように強大な情報力を持っている日本が米国に劣る分野は、映像(LCD)情報である。米国は、かなりの情報は、宇宙空間の衛星から撮った衛星写真で得る。
■韓国、情報を知っていたのか?
日本の情報消息筋によれば、金正男の日本密入国情報を知ったのは、日本公安当局ではなく、米国CIAだった。CIAは、前もって在米同胞ユン・ホンジュンと金正男の武器取引コネクションを把握していた。それで、CIAは、金正男の日本密入国の事実と武器取引代金の洗濯に関する情報を日本に流し、員本が金正男を捕まえざるを得なくしたのである。
一方、韓国政府は、日本の言論の報道が出てくる直前まで、事件を感知できていなかった。米国と日本政府が情報を我が政府に全く通報しなかったためである。我が外交当局がこの事件の消息に初めて接したのは、5月3日午前だった。しかし、日本は、詳細な内容を伝えず、「金正日の息子金正男のような人物が入ってきたようだ」という諜報水準の情報を我が政府に伝えただけである。
ハン・スンス外交通商部長官は、5月4日、国会外交通商委に出席し、「日本政府に問い合わせたが、最後まで公式確認をしなかった」と語った。青瓦台も、この事件に対して、言論発表水準以上は、理解できないでいた。
また、事件直後、韓国情報当局が日本情報当局に金正男の逮捕の経緯資料を要求するや、日本は、これを拒絶したという。ある情報関係者は、これを最近の日韓情報当局間に形成された「不快な感情」のためだと説明した。
昨年9月2日、我が政府は、北朝鮮行を希望した63名の非転向長期囚を北朝鮮に送還した。彼らの中には、日本側が「日本人拉致事件」(80年、大阪で起こった横浜の中国食堂従業員脱北事件)の犯人だと主張する辛グァンス氏が混じっていた。韓国言論に大きく報道されなかったが、当時、この事件は、日韓間の外交問題に広がった。日本政府は、日本人拉致事件をミサイル問題と共に、日朝修交協商以前に解決しなければならない課題だと見ている。
当時、駐韓日本大使館と日本捜査当局は、韓国まで訪ねて来て、辛グァンス氏の接見を要求した。しかし、韓国政府は、「当事者に直接許可を受けろ。政府が関与する事項ではない」とし、接見を許容せず、辛グァンス氏を北送してしまった。
日韓情報当局が情報を共有しないのは、ありふれた事案ではない。これは、米国も同様である。金正男のミサイル販売行脚と動向は、米国CIAが1つ1つ目を通していた。しかし、CIAは、この情報を韓国側に提供しなかったという。米国と日本は、韓国と切っても切れない同盟国である。今回の事件は、特別な問題なく解決されたが、軍事的衝突のような事態が発生したとき、このように韓・米・日間に情報交流がそのまま行かなければ、事態は、突拍子もない方向に悪化する可能性がある。
5月3日の昼まで、この事件を知らなかったのは、韓国政府だけである。北京のある北朝鮮消息筋も、この日の昼、東亜日報の某記者に電話をかけて、「成田空港のビッグニュース」を伝えもした。
北朝鮮の金日成主席は、1974年から本格的に金正日を後継者にするための手はずに入った。この頃、金主席が金正日に任せたところが対南工作の核心である労働党「対南連絡部」だった。一名「35号室」と呼ばれていたこの部署は、今は「調査部」と呼ばれる。金正日は、この部署の責任を負い、指導者修行を始めた。金正日が金正男を後継者にしようとするならば、外国旅行と特殊任務を勧めた可能性が高い。
■金正男、ソウルにも来た?
金正男が成人した以後の顔は、その間、全く知られていなかった。日本の公安関係者によれば、金正男は、旅券10余枚を持って、1990年代初めから、日本、中国、モスクワ、シンガポール、マカオ、香港、タイ、フランス、ドイツ、オーストラリア、南米等、各国を旅行したという。ソウルのある情報関係者は、「金正男の顔を知る者がいないために、彼がソウルに来た可能性もある」と伝えた。
この関係者によれば、金正男が思い立てさえすれば、済州島くらいは、いつでも出入できるだろうという。金大中政府は、出帆食後、済州島を中国人と日本人に無査証(無ビザ)入国地域に開放した。中国や、日本の旅券さえあれば、簡単に入ることができるところが済州島である。ある消息筋によれば、金正男は、ソウルに2回、済州島に1回来たという。情報通信産業に関心が多い金正男には、ソウルの龍山電子商店街のようなところは、魅力的な旅行地でないわけがない。
去る3月、金正日の誕生日頃、平壌を訪問して、金正日と会った朝総連関係者A氏も、金正男が「今度は、済州で会いましょう」と語ったと伝え、彼の言葉を裏付けた。A氏の言葉が事実ならば、金正男は、済州島を過去に訪問したこともあり得る。済州島は、最近、金容淳等の北朝鮮人士が訪問したところである。それで、顔が知られていない金正男が日本旅券か、中国旅券を持って、済州島に入って来る状況は、充分に仮定できることである。東京にさえ入れば、済州島には、大きな困難なく入国することができる。
■金正男の旅券の秘密
警察のある対共関係者は、「最近、済州は、北朝鮮の対南工作の巣窟になっている。北朝鮮の工作員が日本と中国旅券さえ持っていれば、空港を通って入ることも、取り締まる道理がない」と語った。匿名を要求したある大学教授も、「金正男のような人物がソウルに来ようとすれば、彼を受け入れられる北朝鮮側組織がソウルになければならない。しかし、現在、我が情報機関は、このような状況を調査する雰囲気ではない。我が政府も、これに対して関心がない」と語った。
金正男のドミニカ共和国旅券に記載された名前は、「パン・シオン(PANG XIONG)」で、生年月日は、1971年5月10日とされている。生年月日は、実際と同じである。旅券を作ったのは、2000年4月1日で、満了期間は、2006年4月1日だった。金正男は、この旅券で、昨年10月3〜6日、12月2〜9日、12月25〜29日等、3回日本に入国した事実が明らかにされた。
言論は、問題とされた金正男の旅券を「偽造旅券」と報道した。実際に、中国では、韓国旅券が 종종
取引され、専門ブローカーまでいる。韓国旅行客の旅券を盗むか、ブローカーと結託した韓国人が旅券をブローカーに渡した後、臨時旅行証を発給され、韓国に戻る手法が多い。紛失した旅券は、写真だけ別人に付け替えれば、韓国の外では、世界のどの国でも旅行できる旅券を作ることができる。
しかし、金正男の旅券は、厳密に言えば、「偽造旅券」ではなく、ドミニカ共和国が正式に発行した「借名旅券」と見るのが正しい。借名旅券は、北朝鮮とドミニカ共和国の合意の下、発行された可能性が高い。金正男の旅券が偽造旅券だとすれば、写真を付け替えられていたり、ドミニカ共和国外務省の職印がまがい物だったり、旅券番号が違ってたりする等の捜査結果が出て来なければならない。
しかし、このような発表は、今までなかった。従って、金正男は、偽造旅券を使用したことも、密入国したこともない。ただ、借名旅券を使用したことが問題となったのである。金正男程度の人士がばれる可能性が高い偽造旅券を使用する理もない。
借名旅券は、各国政府の「重要人士」が必要ならば、いつでも使用するものである。金永三政府時、息子のヒョンチョル氏も、秘密任務を帯びて、外国に出て行くときは、借名旅券を使用したという。盧泰愚政府が北方政策を推進するとき、密使として行き来していた人士達も借名旅券を使用する場合が多かった。ある情報機関関係者によれば、大宇グループ、金ウチュン氏が自由に海外旅行を行き来するのは、カザフスタンで旅券を作ったためだという。外国情報機関は、必要だと判断すれば、借名旅券で要員を国外に派遣する。金永三政府当時、リビアのカダフィ大統領の息子も、1年に1回程度、韓国を訪問するのに毎回借名旅券を使用した。
■ドミニカ旅券
ワシントンのある消息筋によれば、金正男が「1998〜1999年の間に、中国人事業家に偽装して、中国旅券を持って、ニューヨークを1回訪れた」と語った。当時、ニューヨークにある中国人貿易会社が金正男を招請したという。金正男は、中国、香港、日本、ロシア、ドミニカの借名旅券を持っており、常に平壌から北京を経て、外国に出て行くという。北朝鮮から中国に出るときは、北朝鮮旅券を使用し、中国を離れるときは、中国旅券を使用するという。
金正男がヨーロッパを行き来するときは、北朝鮮と修交した国では、北朝鮮旅券を使用するが、北朝鮮と外交関係がない国に入国するときは、該当国から拒否反応がない国の借名旅券を使用するという。米国言論は、金正男が日本に不法入国しようとして、逮捕された事実が明らかになるや、1999年に金正男と推測される東洋人が米国フロリダ空港を通って、入国しようとしたが、偽造ビザと判明し、入国を拒否された事実があり、2000年には、ハワイ空港を通って、入国しようとしたが、追放された事実があると報道した。
そうであれば、彼は、何故、ドミニカ旅券を持っていたのか?北朝鮮当局が自主的に作った可能性もあるが、コリア・ゲート事件の主人公であるロビイスト、朴トンソン氏が斡旋した可能性が有力に提起されている。朴トンソン氏は、北朝鮮最高首脳部と線を付けているものと知られている。「新東亜」2000年3月号のインタビューにおいて、朴氏は、北朝鮮高位層に国際機構と地域機構、西側先進国への立地を拡げさせるための外交手腕を助言したと明らかにした。主として会った人物は、ア太平和委員会の人物だと語った。当時、インタビューにおいて、彼は、このように語った。
「少し前に、平壌に行ったが、国連と世界銀行、IMFに対して、集中的に訊ねるんだ。驚いたことは、まだ韓国も余り神経を使っていないEUに対しても、関心が多かった点だ。彼らの支援を受けるとすれば、どのように接近しなければならないのか、どこにつなぎをつけなければならないのか、こんなことを教えてくれというのだ。米国と中南米諸国が参与する米州機構(OAS)、アフリカ団結機構(OAU)等と北朝鮮を連結させるための私の経験とノウハウを知らせることもします」。
朴トンソン氏が北朝鮮最高首脳部と線を付けた契機は、ブトロス・ブトロス・ガリ前国連事務総長の訪朝だった。ガリ総長と親しかったパク氏は、彼と一緒に北朝鮮を訪問した後、今まで北朝鮮を数回行き来している。そのような朴トンソン氏がドミニカ共和国旅券を所持しており、ドミニカ共和国に相当な影響力を備えている。彼の影響力を証明する事例がある。
1995年9月1日、中央日報金ヨンフェ記者がドミニカの朴トンソン氏の邸宅を訪問したとき、彼を出迎えに来ていた黒人運転手が交通事故に遭って死亡した。すると、ドミニカ共和国外務相と副大統領を担当していた与党総裁を始めとする著名人士達が続々と弔問電話をかけてきたという。パク氏は、その頃、日本から3,000万ドルの無償援助をドミニカ共和国に斡旋したことで、そのようなこともある。
朴トンソン氏のドミニカの邸宅は、引退した米国の億万長者や、巨富達が別邸を備えているラノマナのカサ、カンポにある。土地5,000坪に本邸とゲストハウス、下人達が住む2件の家で構成されたこの邸宅は、この村でも最も規模が大きい。海岸線が2ヵ所も深く食い込んだ庭園の一面が海と接しており、風光が優れ、家事、料理師、庭園師等、管理人9名が家を世話している。この邸宅は、彼が1970年代に米国政治人のための休養地として使おうと、巨額を投じたものだという。
しかし、朴トンソン氏の側近は、「新東亜」との通話において、朴氏が金正男にドミニカ旅券を斡旋したという説を全面否定した。彼の言葉。
「朴トンソン会長は、今、海外滞留中です。パリとワシントン等の地を経て、5月末頃、韓国に戻る計画です。現在、正確な所在地は、私も知りません。パク会長がこちらに連絡してくるだけで、私がパク会長に連絡する方法がありません。朴会長が金正男の旅券を作ってやったという話は、話もしていません。彼がドミニカ旅券を持っており、朴会長の家がドミニカにあるために出て来た噂のようで、朴会長は、ドミニカに1年に1、2回休養のために来るだけです。そのような彼がいかにして金正男の旅券を作ってやったというのですか?朴会長が北朝鮮に出入するのは、人参合作事業のような用務があるために、そのようなことのためではありません。噂に過ぎません」。
金正男事件が起こった後、ワシントンのある消息筋は、金正男と一緒に逮捕された女性2名の内、サングラスをかけた洗練された外貌の女性は、金正男の愛人金ミジン(29、日本名「マチコ」)と明らかにした。この消息筋によれば、金ミジンは、北朝鮮の高麗航空会社を運営する金チャンソンの娘で、日本で勉強した。カナダ、中国、日本に住む金正男の友人達が平壌を訪問すれば、金正男が金ミジンを連れて来て、通訳をするか、案内役をさせるという。この消息筋は、子供の手を取っていた女性は、年が33歳で、名前が明らかにされていない保母だと伝えた。
■金正日の隠し子金ナムイル
しかし、5月15日、日本法務省の町田幸雄入国管理局長は、衆議院予算委において、民主党海江田万里議員の質疑に子供の手を取っていた女性が金正男の夫人で、名前は、「シン・ジョンフィ」だと答弁した。サングラスをかけた女性は、シン・ジョンフィの親戚である「李キョンフィ」と明らかにした。町田局長によれば、2人の旅券に、シン・ジョンフィは、1971年9月7日、李キョンフィは、1968年7月2日として生年月日が記載されていたという。
しかし、言論に公開された写真を見れば、縞模様の上衣を着て、子供の手を取った女性(日本法務省がシン・ジョンフィと明らかにした女性)は、二重あごが出る位に首に肉がつき、服装と外貌も、1971年生まれと見るのが難しい位、歳をとって見える。反面、日本法務省がイ・キョンフィだと明らかにした女性は、1968年生まれと見るには、余りに若く見える。2人の生年月日が入れ換わったのかも知れない。そして、先に明らかにした通り、彼らの旅券は、全て借名旅券である可能性が大きいために、旅券に書かれた名前と生年月日をそのまま信じることもできない。金正男だけ見ても、旅券に記載された名前は、中国人「パン・シオン」だった。しかし、現在までは、日本法務省当局者がシン・ジョンフィとイ・キョンフィだと確認したために、別の推測を行うことはできない。ただ、「金ミジン」という第3の人物を想定できるだけである。
しかし、日本公安当局は、子供の名前だけは明らかにしていない。外信と国内言論は、野球ジャンパーと黒色のズボン、白い運動靴を履いていた7歳位の子供を今まで金正男の子供と推定した。しかし、「新東亜」は、この子供と関連して、意外な場所から新しい情報を入手した。この情報によれば、子供は、金正男の子供ではなく、金正日の隠し子「金ナムイル(仮名である可能性が高い)」である。この情報を提供したのは、フランスのパリ7区セーブル街42番地にあるラエナック病院関係者である。この病院は、韓国で言えば、朴正煕大統領の遺体が安置された首都陸軍病院のようなフランスの高位公務員や、軍人達が利用する病院である。ミッテラン大統領も、ここで死亡した。フランスのVIPが利用する病院である位、ここは、患者に対する保安が非常に徹底している。
フランスは、国交がないか、テロ国家に指定した国の要人ですら、病気治療を要請するときは、寛大に対処してきた。フランスは、1993年にもイラン外務相タレク・ハジズを極秘裏に手術したことがある。1992年には、パレスチナ解放機構(PLO)傘下団体の総帥ハバシの手術もやはり、「人道的次元」で行われもした。
ラエナック病院は、1994年10月27日、北朝鮮の呉振宇人民武力部長が肺癌を治療するために入り、韓国に知られたところである。当時、「新東亜」は、現場に記者を急派して、病院関係者とパリの国際機構に勤めていた北側人士Q氏を単独インタビューにおいて記事を出したことがある。この病院関係者によれば、呉振宇人民武力部長を治療した後にも、この病院は、北朝鮮のVIPを治療したという。この関係者は、この病院が医師を平壌に派遣して、金正日を治療したこともあると明らかにした。
■金正男の平壌生活
2000年11月頃、北朝鮮側がラエナック病院に特別な「要人」が心臓疾患を治療するため、病院を訪問するので、治療してくれと要請したという。病院側は、北朝鮮側が送った患者の身上記録を見て、驚いたという。「要人」が7歳に満たない子供だったためである。その上、随行する警護員が数十名もいた。
病院側は、尋常ではない人物であることを悟り、「金ナムイル」という名前を使ったこの子供の患者の身元を確認するため、四方に聞きまわった。その結果、「金正日の知られていない息子」と結論を下した。しかし、子供の患者「金ナムイル」は、訳があって、この病院に来て、治療を受けることができなかった。この関係者によれば、ラエナック病院に身上記録を送った子供と東京に金正男と一緒に現れた子供が同一人物であるということである。
最悪のイメージで国際舞台にデビューした金正男は、5月4日、北京空港に到着した後、再び消えた。その後、真っ直ぐ平壌に戻って行った。数日いて帰った等、推測がなされた。平壌に戻った金正男は、どのように暮らしているのか?
去る3月、金正日の誕生日頃、平壌を訪問して、金正男の家で開かれたパーティーに参席し、彼と一緒に時間を過ごしたA氏の証言は、次の通りである。
金正男と一緒に交わるグループが20余名いるが、彼らは、金容淳、張成沢、趙明録等、北朝鮮最高首脳部の子女だという。彼らは、中国で言えば、「太子党」と似た存在のようである。
黄長Y氏が亡命する前には、黄氏の息子もこのグループに属していたが、今は、地方農村の職場に転出したという。黄氏の息子は、事実、銃殺対象者だったが、金正男が保護して、銃殺を免れたという。
金正男は、平壌の外交街にある平壌駐在ロシア大使館の横に大きな家を持っているが、この家で最高位層の子女グループとしばしばパーティーを開く。この家は、軍人が警護しているという。家の中には、大きなTV(CNNと日本のTV、韓国のTVまで見ることができる)と日本・米国のポルノフィルム、カラオケ、ゴルフセット、猟銃、ビリヤード台、値が張る洋酒まで備えているという。A氏によれば、金正男は、音楽鑑賞が好きで、日本のTVを見て、A氏一行に日本の若い歌手のCDを買ってくることを頼んだという。
金正男は、平素、ベンツ380を乗り回し、彼がこの車に乗って出るときは、前後に護衛車両が付くという。彼は、ヨットも持っている。このヨットに乗って、大同江で舟遊びをするという。このように豪奢な生活を証明するように、日本の成田空港で逮捕されたとき、金正男の鞄の中には、約10万ドルがあり、財布の中にも3cm厚の100ドル紙幣、日本の1万円札が一杯入っていた。金正男は、金のネックレスをかけ、手には、ローレックスの白金時計をはめていた。女性2名が持っていたハンドバッグは、ルイビトンとイタリア製品だった。
金正男は、北朝鮮で海外輸出を目的に開発中であるソフトウェア事業開発分野において、主導的任務を担当している。未確認報道によれば、彼は、2年前、エリート・コンピュータ専門家を養成する目的で設立した政府委員会の責任者に任命された。北朝鮮は、ソフトウェア工学を促進して、海外情報技術(IT)投資を誘致するため、平壌に大型コンピュータ・センターを設立した。ソフトウェア開発は、金よりは頭脳に依存する。北朝鮮がこの分野に力を入れているのは、このためである。
また、金正男は、「小さな将軍」と呼ばれ、人民軍大佐(韓国軍の大領に該当)の階級章を付けた人民軍服を着て、金日成総合大学大学院に在学中であるという。現在、彼が担当している職位と関連しては、「朝鮮民主主義人民共和国コンピュータ委員会委員長」、「人民軍保衛司令部核心幹部」、「国家安全保衛部幹部」、「労働党総務部幹部」等、噂だけがはびこっている。
A氏によれば、北朝鮮は、最近、スカッドC型ミサイル生産に熱を上げている。このミサイルを中国と香港、スイスを通して、取引しているが、この取引を金正男が直接立って指揮しているのである。金正男は、公式的にいかなる職位を担当しているのか、確実ではないが、自身の家を訪問した朝総連人士達に、「米国の奴等が何を言っても、我々は、武器を作ってこそ、買うことができる。それで、武器不足品を輸入しなければならない。ミグ機も、我々が組み立てて輸出する。中国と香港、スイスに武器を購入する私の事務室がある」と語ったという。
こう話しつつ、彼は、朝総連の若いグループにスカッドC型ミサイルの部品とコンピュータ・チップ等を買ってくるように注文したという。金正男は又、空に向けて発射体勢を取っているスカッドCミサイル3基がある写真を見せて、「販路を探して下さい」と頼んだという。万一、販路が確保されれば、自分に全ての事項を直接連絡しろと言ったという。
■子供の時から外国留学
この日、彼が販路を探せと見せた武器の写真には、スカッドCミサイルの外にも、数種があった。種類が異なるミサイル8種、肩撃ち式対空ミサイル(写真を見て具体的にいかなる製品なのか、識別できなかった)、地雷(やはり具体的な種類を識別できなかった)、ミグ機(写真を見た者が機種を識別できなかった)等だった。金正男は又、A氏等の友人に金日成大学にある情報通信センターと現在建設中の北朝鮮のITセンターを見学させたという。
のみならず、金正男は、中国を自由に往来しており、北京には、高級アパートまで買って、ゴルフと狩を楽しむという。また、北京で朝鮮族高位官吏の娘及びまた別の中国女性と同居しているという説も提起されている。このような事実は、金正男を逮捕して捜査した日本の法務省、検察、警察、出入国管理所調査班等、4個部署の合同捜査班の調査から明らかにされている。
金正男が自由に外国を行き来するのは、彼が子供の時から外国生活を行ったためである。金正男は、平壌で教育を受ければ、井の中の蛙となりやすく、将来、父の跡を継いで政治をしようとすれば、外の世の中を知らなければならず、子供の時から外国留学をした。
金正男の義理の兄である李韓永氏が書いた「大同江ロイヤル・ファミリー、ソウル潜行14年」によれば、金正男の留学対象国として先ず最初に浮かび上がった国は、ロシアだった。しかし、ロシアはだめだという結論が下された。ロシアは、北朝鮮が良く知る国では大きく習うことがないということだった。
南朝鮮統一まで念頭に置けば、教育は、資本主義国家で受けるのが良いという意見だった。それで、北朝鮮当局は、資本主義国家の中でも、教育システムが最も優れた国を選んでスイスを選択し、その中でも、ジュネーブ国際学校を選んだ。
ジュネーブ国際学校は、スイスでも最も名望ある学校である。インドのガンジー等、著名な人物が通り過ぎ、歴史と伝統が深い学校である。1つの班の定員が10名以内で、教育は、円卓を囲んで行われる。登録金が高くて、1月に1,000ドルを超えたという。
しかし、北朝鮮でも、誰もが資本主義国家に留学できるわけではない。金正日の直系家族でなければ、夢にも見られない。金正日直系家族の中でも、資本主義国家に勉強しに行ったのは、金正男が最初だった。他のロイヤル・ファミリーは、大概、ロシアや、チェコ、フランス、中国に留学する。李韓永氏は、金正日と高英姫の子供である金正哲(20)がスイス、ベルンの国際学校に通ったと回顧した。
金正男がジュネーブ国際学校に入学していたとき、事件が1つ起こった。国際学校らしい学生達が自分の国の国旗を持って、入学式に参席するが、金正男だけ国旗を持っていなかったのである。
当時、スイス駐在韓国大使はノ・シニョン氏だったが、入学式に来ていたノ大使が国旗なしに立っている「東洋の子供」を見て近付いた。後ろに立っていた警護員がピンと緊張したが、ノ大使は、金正男に近付き、どの国から来たのか訊ねた。金正男は、大きな声で「平壌から来ました」と答えた。
ノ大使は、驚いたが、金正男の頭を撫でて行ったという。金正男は、このときからフランス語を習った。李韓永氏が81年の夏休みに来た頃、金正男は、フランス語を流暢に駆使したという。このとき、金正男と李韓永氏は、スイスは勿論、オーストリアのウィーン等、各所に遊びに行ったが、金正男が継続して通訳をしたという。
金正男は、ジュネーブで2年程度勉強したが、1982年春帰国した。家の付近で韓国の自動車が目に止まったためだった。しかし、以後、金正男は、モスクワのフランス大使館学校で学業を継続した。84年に、彼は、再びジュネーブに行き、国際学校に編入された。10代時節、彼のジュネーブ留学は、順調ではなかった。学科勉強に興味を持てず、同年代の友人と付き合う術も知らなかったという。思春期に寂しい外国生活を送り、あるときは、酒と女性に溺れた。結局、彼は、留学生活を全て終えられずに、1988年、再び平壌に戻った。
■南北関係に悪影響
金正男事件は、今後、南北関係にいかなる影響を及ぼすのか?米国は、現在、北朝鮮をならず者国家、不良国家又はテロ集団として規定している。金正男事件でこのような認識は、更に固まった可能性が高い。最高権力者の息子が疚しく不法的な方法で外国に出入するのを見て、全世界は、北朝鮮政権が「異常な国の異常な権力集団」という認識を再確認した。その上、欧州連合(EU)議長国であるスウェーデンのフェルソン総理が訪朝し、金正日のソウル答訪が準備されている時点に起こった今回の事件は、南北関係と韓国の世論にも、大きな衝撃を与えた。
昨年の6.15南北頂上会談以後、我が国民は、金正日国防委員長が過去のイメージとは異なり、非常に明晰で、対話が可能な人物と考えた。しかし、今回の事件を見て、そのような認識は、大きく変わった。1995年以後、数百万が飢えていた北朝鮮の最高権力者の息子が最高級の衣類とアクセサリーを纏って、鞄にドルの札束を一杯身に付けたまま、旅行をしている事実を納得するのは難しかっただろう。
ある北朝鮮専門家は、「今回の事件は、金大中政府の太陽政策に大きな打撃を与えた。このような不道徳な国に現金と肥料、米をやるのか、また、このような政権と真摯な対話をすること自体が道徳的に危険な行動ではないのか、とする反発世論が形成されるだろう」と語った。
北朝鮮は、今回の事件でより大きな衝撃な受けただろう。何よりも、この事件は、金正日国防委員長の大きな金蔓の中の1つを断ち切った。北朝鮮に実質的な助けを与えていた現代の支援すら物足りない中で、これは、深刻な打撃でない訳がない。その上、他人を信じられず、実の息子を動員して、外貨を調達しているが、その存在すら露出したのは、痛いことではない訳がない。西側の対北朝鮮工作は、1日、2日で行われたものではない。これに対応する金正日政権の身動きの幅は、過去よりもだんだん狭まっている。
韓・米・日間に戦略情報が共有されていない点も、深刻な問題である。今回の事件は、ブッシュ行政府出帆以後進行した米韓間の不協和音を剥き出しにして見せた事件だという指摘がある。今回の事件に対する情報を最初に流したのが、本当にCIAならば、ブッシュ行政府は、朝鮮半島政策を「対外政策」として接近するのではなく、「工作」次元として接近するものと見ることもできる。これは、一言で言って、太陽政策を展開する金大中政府に大様に対応しないということである。
大部分の北朝鮮専門家は、金大中政府が朝鮮半島問題に中国、ロシア、EUを引き入れることに対して、米国は、自国の対北朝鮮政策を孤立化しようとする意図で見ていると語る。遺憾にも、金正男が東京で捕まった時期は、フェルソン総理が南北を行き来して、和解のメッセージを伝えていた時期だった。
米国事情に精通したある情報関係者は、「昨年9月初め、北朝鮮最高人民会議金永南常任委員長をひどく身体検査して、米国訪問を取り消させたのは、クリントンの意思とは関係ないCIAの工作だった。金正男事件の意味も、これを連想させる」と語った。
ある北朝鮮専門家は、ブッシュ行政府が「金正日の国家権力を解体する作戦」に着手し始めたと分析した。金正男事件は、その信号弾ということである。
最終更新日:2004/03/19